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雪の写真家への道のり 〜25年の軌跡①〜

昨日、45歳の誕生日を迎えた。

自分が想像していた「45歳」って、もう人生の酸いも甘いも経験した落ち着いた大人の女性になってるはずだった。

でも、私ときたら、未だに海だ、山だとかけずり回ってる。

母の歳で考えると、娘の私はすでに20歳を迎える歳だったというのに‼️

先月、20歳になった姪の誕生日にメールでやりとりしながら、自分の歳を考えた。

そして、過ぎ去った時間の記憶をたどりながら、自身の25年間を振り返ってみることにした。

20歳の記念に友人と遊びに行ったワイキキビーチで

小2のときから毎週欠かさずお父さんと見ていたTV番組「兼高かおる世界の旅」に魅せられ、将来は「兼高かおるさんのような職業に就く」ことが夢だった。

だけど、職業を選ぶ段階で間違えたのだろうか、いつの間にか私の目標は兼高さんのような“ジャーナリスト”ではなく、“国際添乗員”つまり、”ツアーコンダクター”になることに変わっていた。

海外を飛び回る”ツアコン”を目指して短大では英文科を専攻、在学中には国内添乗員のアルバイトをしながら順調に海外添乗員への目標へと進んでいた。。。はずだった。

しかし、1991年のバブル崩壊による経済不況の波は、内定がほぼ決まっていた大手旅行会社の内定条件さえ引き上げ、私は敢えなくそのフルイに落とされてしまった。

途中、方向性が変わってしまったものの、小学生のときからの「夢」を一気に見失ってしまった私には、その次に打つ手すら分からない状態だったが、田舎育ちの自分がせっかく都会に出てきたチャンスなんだから、とりあえず、興味をもったことにドンドン進んでチャレンジしてみよう!と、今思えば“前向き”に“貪欲”に突き進んだ時代だった。

そんなときに、偶然、友人に誘われて出会ったのが「スノーボード」。

雪の降らない四国の街で育った私が雪の上を滑走するなんて、到底無茶な出来事だったが、スキーと違って手に持つモノ(ストック)はないし、足はバラバラにならないし、転んで板が外れることがないので、バランスさえ保てればなんとか滑れる(と、思ってしまう)。何よりゲレンデで「スノーボードをしている人が殆どいない」ので、一本の板に乗ってサッソウと風を切る姿はとにかく目立つしカッコいい!!自分もそのうちの1人でいることにこの上なく優越感を覚えてしまって、なんとか上手くなりたくて時間があるときは仲間達と片道数時間かかるゲレンデに通った。

しかし、ゲレンデは「スノーボード滑走禁止」時代に突入。

かろうじて一部が滑走出来るスキー場もあったが、上部から滑り込んだゲレンデが「滑走禁止区域」で、戻りのリフトにすら乗せてもらえず、板を担いでゲレンデを登り返したりと、満足に滑ることすら出来ないままゲレンデを後にすることも多くなった。

ロングランが望めない限られたエリアで、それでもスノーボードに夢中でいられたのは、誰かが“ポコジャン(雪で作った小さなジャンプ台)”を作ってスノーボードで飛んでいるのを発見したからだ。ただでさえ、雪の上を風を切って滑るという自分にとっては未知の、斬新な体験をスノーボードから得ていたのに、そのうえ「空中を飛べる!?」なんて、全く、なんて未知数の遊びなんだろう。

それからというもの、ゲレンデに向かう車にスコップが常備されていたのはいうまでもなかった。

今から考えれば、当時はもうすでにスノーボード人口の多いゲレンデでは「ハーフパイプ」という新たな遊びが確立され、ハーフパイプが競技として全国各地で大会が開かれていた頃だが、当時OLとして働いていた自分にとっては、週末に大阪から片道約6時間もかけて混雑する大きなゲレンデに通うことは現実的でなく、近場でなるべく空いているゲレンデに通い、仲間達とワイワイ楽しく滑っていた程度だったので、スノーボードがどんどんメジャーになっていくシーンの様子も何も分かっちゃいなかった。

そんなシーズンを3年ほど過ごした後、私に転機が訪れる。

23歳の春だった。

 

つづく

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