雪の写真家への道のり 〜25年の軌跡②〜
「雪の写真家」なんて、偉そうに、自分を鼓舞するようなタイトルをつけてしまったが、元はフツーの(いや、昔の写真を見る限り、ちょっと変わった?)女の子だった。
進学とともに大阪に上京し、一途に夢に向かって突き進んでみたものの、現実はそんなに甘くはなかった。(これまでの話)儚くも当時の夢は破れてしまったが、“ジャーナリストになる”という新たな目標(本来思い描いていたハズの職業)にも思い至らず、でもどこかで海外を華麗に飛び回るイメージは残っていたので、英語の語学力を延ばすことが自分にとって必要だということを感じていたこともあり、一つ二つ仕事を転職したのち英会話学校に勤務することになった。
勤めた学校は大学の生協を通じて生徒を募集している学校だったので、生徒の多くは大学生で、将来海外の大学に編入を希望していたり、短期留学のための下準備として英会話を習得するために通っていた。自分が在学中に短期留学を経験したり、アメリカ大陸を横断したりと少しだけ海外生活を経験していたことと、社会人ということで、学生生徒たちには多少、先輩風を吹かせていたが、自分とそれほど年端の違わない生徒たちとは仲が良く、たびたびいろんな相談ごとを持ちかけられた。
ある日、スクールの授業が終わった後、数人の生徒が「ワーキングホリデー制度」について質問してきた。どうやら“海外で働きながら休暇を過ごすための制度”らしい。
海外で働く?
そのためには「ワークビザ」が必要なのでは・・・。
“海外で働く”キーワードについては、それまでに幾度となく引っかかることがあったので、自分なりに調べてはいたが、「ワーキングホリデー制度」のことを知ったのはそのときが初めてだった。
いろいろと調べていくと、ワーキングホリデーとは読んで字のごとく、“働きながら過ごす休暇”。現地で働くための“ワークビザ”や、留学するための”スチューデントビザ”とは異なり、日本と協定を結んだ国に一定期間滞在でき、その間の滞在費を補うための働いたりできる制度のことらしい。あくまでも“休暇”がメインで、“働くこと”は優先されない、ちょっと優雅な感じのする制度だ。
当時(1995年ころ)の提携国はオーストラリア、ニュージーランド、カナダの3カ国。(2017年現在は18カ国!!)ビザ申請が許可される年齢は18歳〜25歳以下(今は30 〜35歳まで申請可能な国もある)で、1人1回のみ許可されるビザだった。このとき私は23歳。
すでに海外生活をしてみたい若者に人気の制度で、1年に1度の申請は書類選考からの抽選だった(と思う)。
「思い立ったら即行動」
今ではなかなか重い腰が上がらなくなってしまったが、当時の私の行動力はハンバなかった。
実は、先の2度の渡米経験を経て、アメリカの「グリーンカード(永住権)」取得を目論んでいた最中だったんだが、そんな高いハードルを目指しているよりまずは渡航だろう、と心の声がささやいたのだった。なんの根拠もなかったが、そのときの私にとっては、この制度こそが私に新たな目標を与えてくれる唯一のチャンス!くらいに神々しく思えた。
また行き先を選ぶことも迷いなかった。
2度目の渡米のとき、アメリカ大陸をキャンプしながら1ヶ月かけて横断する現地のツアーに参加したのだが、目にした壮大な景色の数々は、TVや本で見た自分が知っているどのアメリカよりも素晴らしく、ツアー後1ヶ月滞在したLAで出会った人々は、自分が想像していたよりもはるかに親切でポジティブで勤勉だった。だから、またアメリカに行きたいと思っていた。行きたいというより、気持ちはすでに「戻り」たかった。なので、「隣国」という理由で、ワーキングホリデーの渡航先はカナダに決定した。カナダについては、それまで全く情報を得ることがなかったが、せっかくだからスノーボードがしたい!ということで、西の大都市、バンクーバーに行くことにした。
生徒からの相談に応えつつ、どんどんとその情報を自分のものにしていく、その貪欲な行動力に、同僚はもとより、生徒たちもあっけに取られていたようだった。でも、生徒たちのすぐ側で、小さな目標を叶えようとしている人がいる、という事実は生徒たちにとっては手に入れがたい実体験を目撃できるということで、たくさんのエールをもらうことできた。そして晴れてワーキングホリデービザを取得、翌年の1月出発、バンクーバー行きのチケットを手に入れた。
ただ気がかりなことが一つ。
当時、爆裂的に支持を得ていた細木数子の「六星占術」にどっぷりハマっていた先輩からの一言。「ミホ、来年は“大殺界”(六世占術でいうところの“本厄”みたいなもの)やから、来年は行かんほうがえぇんちゃう?」って。
(でも先輩、そんなん言われても、もうチケットもぜ〜んぶ手配済みですし。。。)
その一言が吉と出るか、凶と出るかは、また次回。
つづく